再び郡山城三の丸遺跡を見て見る [大和郡山]
発掘の様子を詳細に見て見ましょうか。市役所の北側の駐車場のところです。どうも屋敷跡だそうです。豊臣期まで行くのか・・。
朝日新聞の記事から→
「大和郡山市の郡山城跡で、16世紀末~19世紀とみられる礎石建物や溝などの遺構が見つかった。礎石建物は武家屋敷跡とみられる。これまで郡山城三の丸に武家屋敷があったことは江戸時代後期の絵図などで知られていたが、遺構は確認されていなかった。
市が庁舎の建て替えに伴い2月から発掘調査を実施し、発表した。郡山城は1580年、大和を統一した戦国武将の筒井順慶が築城。その後豊臣秀吉の弟、秀長らが入城した。発掘現場は現庁舎のすぐ北側で、三の丸の一角にあたる。
調査区の南東部分に直径約20~45センチの礎石が、南北約7メートル、東西約2・5メートルの範囲で多数並んでいるのが確認された。16世紀末から17世紀中ごろの陶磁器などが遺構の盛り土部分から出土したため、建物は豊臣政権期にまでさかのぼる可能性が高いという。
このほか、屋敷を区画したとみられる17世紀中ごろ~18世紀中ごろの溝や排水施設の一部とみられ、19世紀初頭に埋没したと考えられる土坑(どこう)も見つかった。市文化財保存活用係の青山加奈子さんは「武家屋敷とみられる建物の遺構が見つかったのは想定外だった。三の丸の機能が時代ごとに異なることが分かったのも重要な成果」と話している。」https://digital.asahi.com/articles/ASM5944Z0M59POMB003.html?_requesturl=articles%2FASM5944Z0M59POMB003.html&rm=354
朝日新聞の記事から→
「大和郡山市の郡山城跡で、16世紀末~19世紀とみられる礎石建物や溝などの遺構が見つかった。礎石建物は武家屋敷跡とみられる。これまで郡山城三の丸に武家屋敷があったことは江戸時代後期の絵図などで知られていたが、遺構は確認されていなかった。
市が庁舎の建て替えに伴い2月から発掘調査を実施し、発表した。郡山城は1580年、大和を統一した戦国武将の筒井順慶が築城。その後豊臣秀吉の弟、秀長らが入城した。発掘現場は現庁舎のすぐ北側で、三の丸の一角にあたる。
調査区の南東部分に直径約20~45センチの礎石が、南北約7メートル、東西約2・5メートルの範囲で多数並んでいるのが確認された。16世紀末から17世紀中ごろの陶磁器などが遺構の盛り土部分から出土したため、建物は豊臣政権期にまでさかのぼる可能性が高いという。
このほか、屋敷を区画したとみられる17世紀中ごろ~18世紀中ごろの溝や排水施設の一部とみられ、19世紀初頭に埋没したと考えられる土坑(どこう)も見つかった。市文化財保存活用係の青山加奈子さんは「武家屋敷とみられる建物の遺構が見つかったのは想定外だった。三の丸の機能が時代ごとに異なることが分かったのも重要な成果」と話している。」https://digital.asahi.com/articles/ASM5944Z0M59POMB003.html?_requesturl=articles%2FASM5944Z0M59POMB003.html&rm=354
コメント 0